「仕組み」「からくり」「理解」

教育

 夢を見ていた。夢の中の私は高校生で社会科の定期テストを受けねばならなかった。それが嫌で嫌で、ボイコットしようかと思っていたのだが結局最後には受けに行く。するとそこには中学の時のとてもやさしかった社会科の先生がいて、「長谷川テスト受けなきゃダメだろ。」と諭された。残り時間はわずかしかなかったが、それでも問題に目を通す。しかし、そこには意味不明の単語の羅列があるばかりだ。「先生これってただ用語を覚えたかどうかの上っ面の知識でしょう?こんなの教科書を丸暗記させときゃいいじゃん。ほんとに知りたかったら今時ググるでしょう。生徒がググりたくなるような授業をするのが教師の役目なんじゃないんですか?俺の頭はこんなの丸暗記するほど暇じゃないですよ!ドラゴンボールZの歌詞にあるでしょう『頭カラッポの方が夢詰め込める!』って。」すると先生は悲しげな顔をされた。私はさらに畳みかけた。「知的刺激を受けるようなテストでなけりゃやる意味ないですよ。この試験から受ける知的刺激はゼロですよ!」それに対して先生は「そう言うなよ。こっちにもいろいろあるんだよ。」と悲しげにおっしゃった。夢の中でまでお世話になった先生に毒づいてしまった。いやむしろお世話になった先生だからこそ毒づけたのか?何で今更こんな夢を見たのか分からない。1つには自分が教師だったころ、時間に余裕がある限りは生徒に面白いテスト問題を作ってやろうと思っていた。その頃の想いが時を経てこの夢に凝縮したのかもしれない。
 

 確認しておこう。なぜ教科書や用語の丸暗記がナンセンスなのか?それはそこに「理解」が伴わないからだ。昔は「読書百遍義自ずから見る」などと言ったようだが、今は昔とは違う。読書の対象も量も違う。理解を伴わない読書など苦痛なだけだし、そんな暇はない。中高のうちはとにかく覚えて、大学に入ってから考えろなどと言う人もいるが、それでは大学に入る前につまらなくて興味を失ってしまう。大切なのは「仕組み」「からくり」を「理解」することだ。何故なら「理解」することが楽しいからだ。そして人は楽しければ自ら学ぶ。逆に「理解」を伴わない暗記は苦痛でしかない。なのに、この「理解」を伴わない暗記が世に溢れているのは何故だろうか?それは失礼を承知で言わせてもらうが、物事の本質的な「仕組み」「からくり」を伝えられる教師が不足しているからではないか?物事の本質的な「仕組み」「からくり」を教えるにはそれなりの教養や専門性が不可欠だ。それを持った教師が足りていないのではなかろうか?北欧のスウェーデンでは教師になるのにマスターの学位が必要とされる。それは良く解る話だ。もっとも私自身も修士号を持ってはいないのだが・・・。
 

 ただ、1つ言わせていただくなら、この国の一般的な風潮として小、中、高、大と年齢と専門性が高くなるにつれ、教師の給料も社会的地位も上がっていくがそれは大きな間違いだ。教育において大切なのは大学教育よりもむしろ初等教育や中等教育ではないだろうか?若しくはどの段階においても教育の場において、その給与や社会的地位に差をつくるべきではない。

 偉そうなことを承知で言わせていただくと、教育の質が向上すれば、国民の教養が向上する。企業は人なり、国家も人なり。自ずとよりbetterな国になるのでは・・・。少なくとも「~劇場」などと言うフレーズは消滅するのではと思うのだが・・・。いや、身の丈にそぐわないことを申しました。やれやれ。

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