「先生は中学の時、ポジションどこだったの?」
学校から学童に帰って来た6年生の男子に聞かれた。私は正直に答えた。
「私は右のハーフをやってたよ。でも中学3年の時、サッカー辞めちゃったんだ。」
「何でやめたの?」
「すごいわがままな奴がいてさ。そいつをキャプテンも部長も抑えられなくて、結局、俺とそいつが衝突して、俺が辞めた。」
その男子は「な~んだダメじゃん」と言う顔をしていた。そうなのだダメなのだ。私は散々サッカー好きを公言してきたが、自分自身はサッカーを中途でやめた経験がある。
帰ってくるなり、そんな質問をしたところから見ると、もしかするとその男子はどこぞで情報を仕入れて知っていたのかもしれない。それで私が何と答えるか?試しに聞いてみたのかもしれない。その男子はがっかりしたような顔をしていた。私はまずかったかな?と思いつつも正直に伝えたのだからこれで良い。そう結論付けた。
途中で止めてしまったとしても、好きなら、またやりたくなったらやればよい。一度身についたスポーツは一生ものだ。確かにその当時のチームメイトには悪い事をした。特に小学校から同じチームでやって来た当時のキャプテンにはその後なじられた。でも私にも私の言い分があった。「お前がしっかりしないから俺が奴と衝突したんだろう!」と。今となっては昔話だ。
この話を聞いてその男子は私のことを「な~んだダメじゃん。」と思ったかもしれない。私のことを「ハセキング」と呼んで慕ってくれた彼には悪い事をした。でもこれで良いのだ。家では威厳に満ち溢れているお父さんが、会社の上司にはペコペコしていたり、学校ではお手本の先生が、実は私生活でだらしない面があったり、ヒーローと思ってきた人に実は話したくない過去があったり、それらを知って初めてそれまで“絶対的“だった存在を“相対化”できるのだ。そうやって人は“大人”になっていくのだ。私だってそうだった。
もし仮に永遠に“相対化”できない相手がいるとしたらそれは例えば私にとってはチェ・ゲバラだったり、ジョンレノンだったり、多くは人生の半ばで命を落としてしまった人達だ。天寿を全うした人がいるとしたらそれはモハメドアリくらいのものだろう。もっともモハメドアリだって欠点は多々あった。彼の「ベトコンは俺たちの事を二グロと呼ばないからな。」と言う発言は、彼がベトナムの人達の事をベトコンと呼んでいる時点で矛盾している。それでもやっぱり偉大な男だったと私は思うのだが・・・。
話しはそれたが、そうやって絶対的な存在だった人たちを相対化する事で、乗り越えて行く事で人は大人になるのだ。私の様な“身近な大人”の代表としては彼らの“踏み台”になってやることが1つの役目なのではないか?と感じている。彼らがどう思うかは知る由もないが・・・。
そう言うわけだからK君。私なんてヒーローでもキングでも何者でもないんだよ。だから私のことなど踏み台にして、もっともっと高い所まで駆け上がってごらん。そして私の見られなかった景色まで見てご覧。遠くまで行ってご覧。そうすする事が我々大人の大切な役目の1つなんだよ!そうやって、バトンて受け継がれていくもんなんだよ。だからK君、君が大人になったらやっぱり次の世代の子供たちの踏み台になってやってよ。それが私からのお願い。ではまた!!!
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