20年越しのエスパー伊藤

共鳴・シンクロ

 昨晩、眠りにつくかつかないかの瞬間「先生!エスパー伊藤!!!」と呼ぶ声が聞こえてきた。私がエスパー伊藤に似ているとネタにされたのはかれこれもう、20年も昔の話だ。間違っても今の勤め先の学童の子供たちの声ではない。そもそも今の子供たちはエスパー伊藤など知らないだろう。だとすればこの声は《あの二人》しかあり得ない。そう瞬間感じて私はやはり20年前の如く「俺がエスパー伊藤に似ているんじゃない!エスパー伊藤がたまたま俺に似てたんだ!」と心の中で大声で返してやった。あれからもう20年もたつ。どこかで私のこのブログの事を聞きつけて夢で知らせてくれたのかもしれない。ひょっとすると私がこのブログを続けているのも彼女らに私のことを忘れて欲しくないからかもしれない。だとしたら私も結構な俗物だ。何にせよ相手のことを思う気持ちが強ければ人は夢の中で邂逅し意思疎通(シンクロ)できるというのが私の持論だ。夢を通じて人は実に様々な事が出来る。感謝したり、喜びを伝えあったり、笑いあったり、憐れんだり、欺いたり、汚したり、犯したり・・・。夢の中でくらいは正直でいたいものだと思う。同時に例え夢の中だろうと、やっていい事と悪い事があるのも事実だ。

 

 話は変わるが、この連休を使って山形にいる友人に会ってきた。青春時代の最もコアな時間を共有した友人だ。今では住職をしている彼と山形駅前で夕食を共にしてきた。久しぶりに飲んだプレミアムモルツのせいか私は雄弁になっていた。

 「俺が政治家になるとしてだな、そんな事死んでもないが・・・、選挙公約(マニュフェスト)はものの2分で済む。こうだ。人は誰でもその人なりの能力がある。能力のある人がその能力を如何なく発揮できる社会制度をつくる事。そしてそれが正しい事なんだという社会通念をつくる事。この二つが俺の考える選挙公約だ。」どうも気が大きくなっていたらしい。とてもじゃないが職場の人たちには聞かせられない(笑)。

友人は

「それは君に能力があるという前提で話をしているんだと思うが、君には何があるの?」

と聞くから私は

「俺にどんな能力があるかは他人が決める事だよ。」

と答えた。続いて友人は、

「じゃあ何の能力もない人はどうすればいいの?」

と聞いてきた。私は

「老子の無用の用って知ってるだろ?これと言った能力のない人は「俺には能力がないという能力がある。」と言って大手を振っていればよい。あっそれもマニュフェストに入れるべきだな。」

と答えた。その後、いろんなことを承知した上で友人は

「まあ、夢はいつか覚めるよ。穏便にな。それよりも今こうして米沢牛をかみしめている幸せを感じてだな云々。」と山形弁で答えてくれた。

 どうも彼は立派になったようだ。職業が人をつくるというのは確かにある。じゃあ私自身はどうなのだろう?そんなことを考えながら帰途に就いた。

 先の夢の話に戻るが、1つ気づいたことがある。才能とはエゴイスティックなものだという事。人を愛するというのは常にその人がどうすれば笑顔になるかを考え、実行に移さねばならない。「エスパー伊藤!!と叫んでくれた彼女たちは常に笑顔とサプライズを私にもたらしてくれた。当の私はと言えば今も昔も自分の事で精一杯だ。逆に言えば人を愛するという才能が私には欠落しているのかもしれない。まあそれはそれで仕方ないさ。そう結論付ける。それに代わる何かが果たして私にはあるのだろうか?ふと本棚に目をやると、そこには『水滸伝』がある。あ~彼らの様にでっかく生きたいなぁ。そう、自己紹介の趣味の欄に「世直し」って書けたら最高だ(笑)。

 どうも私は私の枠をいまだ超えられないらしい。

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