『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─』(武田一義、平塚柾緒(太平洋戦争研究会)白泉社) を読んだ。すごいマンガだった。繰り返すが、すごいマンガだった。薄っぺらな感想はこの作品に携わった方々に失礼になるのでここでは触れない。ただこの作品を読んで初めて私は自分のルーツなるものに興味を持った。父方にしろ、母方にしろ、自分の祖父母がどういう風に出会い、どんな風に生きたのか?その中で父が生まれ、母が生まれ。命が引き継がれて。そのおかげで自分がいる。つまり命のリレーと言うものに興味を抱いた。それまで私はごくごく素朴に祖父母、特に母方の祖父の事が好きだった。だが、それとは別にあくまで自分は自分で一個の独立した存在だと思っていた。先祖をさかのぼればどういう血筋で、どの様な社会的存在でとか、全く興味なかった。つまり俺は俺だ。と思っていた。少し傲慢だったかもしれない。確かに血筋がどうとか今でも興味はないのだが、それとは別にもっと祖父母の事、また曾祖父母の事を知らねばと思った。点ではなくて線で、文脈で理解しなければ今の自分を本当に知ることはできないと思ったのだ。
最近、職場の学童である子から「先生は結婚しないの?それじゃ先生の血筋は終わっちゃうね。」と言われた。私は「私は兄も妹もいてどっちも子供がいるから、私自身はどうでもいいんだよ。」と答えた。でもこの作品を読んで、どうでもいいってことはないなあ~と少し反省した。(先祖に失礼?とも言える。)子供達はこういった事に意外に敏感だ。命のリレーと言う事に対して、我々よりもよく解っているのかもしれない。
ここ2・3日そんなことを考えていたら、さっき夢枕に父方の祖父が出てきた。何故か夢の中で私は、大学時代の親友と一緒で二人して就職が決まっていなかった。祖父はめずらしく「がんばれよ」と言ってニヤッとしていた。生前、父方の祖父と私はあまり交流が無かった。少しだけその人柄に触れた気がした。無論、気がしただけなのだが・・・。
まあ、何が言いたいかというと、今現在、自分自身が存在しているのは先祖のおかげなのだと。極々当たり前の事だし、今更ではあるのだが・・・。ただ、見方を変えれば、自分自身として存在しなければならないのも、先祖のせいだとも言える。でもまあ、存在しえたという事は、初めから存在しなかったことよりも、いくらかましなのではないか?というか、そういう風に考えてみようという事だ。存在しなかったら考える事すらできない。その意味でやはり、先祖に感謝せねばならない。とすればルーツを知るべきなのでは?と思った。
お盆に墓参りに行くのは伊達じゃないんだな。初めてその意味が解った気がした。少し遅かったというべきか・・・?そんなわけで(どんなわけで?)是非読んでみてください。『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─』
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