フェイク

歴史

最近「フェイク」という言葉をよく耳にする。
例のトランプ大統領の「フェイクニュース」発言だ。
トランプ氏の言うことはどうかと思うが
多かれ少なかれ我々は「フェイク」の中で生きているのだと思う。

結論から言うと
事実が一つであるのに対し
真実はいつだって複数形だ。

一つの事実にどういう方向から光を当てるか?
光の当て方次第で映る影の形も変わる。(完全な球体であれば話は別だが)
つまり光の当て方だけ(人の数だけ)真実がある。

若しくは

どういう事実を
どのタイミングで
どれだけの量
どういう方向性で
流すか?

そこにはおのずと伝える側の主観が入る。
その意味において
すべての真実はフェイクであり、
フェイクでないニュースなど存在しないのかもしれない。

そして極論すれば人は
数ある真実(フェイク)の中で
「自分の信じたいことを信じる」のだ
誰だって
「あの子お前に気があるらしいよ。」
と言われて悪い気はしない。(たまに例外もあるが・・・)
若しくは
「こうであれば皆が丸く収まるのに」
という類の真実を信じたいのだ。
もしかすると、この国ではそれが顕著かもしれない。
良くも悪くも、それがこの国らしさなのだろう。

ただ、時の洗礼を受けて
それこそ100年200年という時間を経て
多面的で客観的な資料(質量ともに)を分析することで
浮かび上がってくる「より妥当な事の本質」というものがある。
その作業こそが歴史学の存在意義なのだと思う。

ほんの少しだが
歴史をかじってよかった。
親のすねもかじらせてもらった。
感謝だ(笑)。

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